最近は“できない自分”を許容してきました。
その許容範囲が徐々に広がり
それがついに主の怒りに繋がったものと考えられます。
言い訳になりますが、50年以上サタンの世界に首までズッポリと浸かって生活していた私。 妥協するクセが抜けません。
できないままの課題を放っておいて、見て見ぬ振りをしていました。
悔い改め=神様にごめんなさいすること
ではありませんでした。
これでは裁かれて当然です。
完璧を目指して、それでもなお手の届かない部分を教えてもらうこと。
また、間違った道を進んでいたら指摘してもらうこと。
それが万物啓示であり、祈りであり、悔い改めであると悟りました。
これは自分ひとりで聖書を読んでいても、決して得ることができない知識です。
それをキチンとした言葉で理論的に教えていただいているラプト氏には感謝しかありません。ありがとうございます。