常に与える存在が神様で、奪い、ため込む存在がサタン

神様に顔を伏せることなく死にたい

私のように50歳代になると、
ぼんやりながら人生のゴールが見えてきます。
若い頃は無限に広がっていたかのように見えていた世界が
マンホールの中のように
とても狭くなっているのを感じます。

そして死を迎えるにあたって
どのような状態であるべきかを考えるのです。
そんな時、

『世を去る時が近づきました。
わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、
信仰を守り抜きました。
今や、義の栄冠を受けるばかりです。』
テモテへの手紙二 4-6

というパウロの言葉が頭に浮かびました。

私もこのように神様に顔を伏せることなく、
堂々と、この言葉を胸に抱きながら死にたいと、
心底思うのです。

現代日本にマッチしたタイムリーな御言葉

ではどうしたら、そのように生きることができるのか?
それはラプト氏が与えてくださる御言葉どおりに生きる以外、
方法はありません。
ラプト氏が使命をもらう以前は
聖書に書いてある通りに生きるのがベストでした。
しかし、新約聖書が書かれたのは2000年前です。
人間は進化し、成熟しています。
当然、通用する部分としない部分がでてきます。

実際にラプト氏の解説なしに聖書を読むと
頭の中は「?」の嵐です。
聖書にはパスワードが必要だったのです。

ラプト氏の口から発せられる
現代の日本にマッチした御言葉。
私たちに理解しやすい御言葉を
神様はラプト氏を通して与えてくださっています。

私たちがいま何をすべきかを明瞭に教えてくれるので
とてもありがたいです。
しかし裏を返せば、
逃げ場を設けていない厳しい使命ということになるのですが…。
狭き門とは、それを言うのでしょうね。

常に与える側であることを願う

私たちは神様から霊体と肉体を与えてもらって、
この世に存在しています。
つまりは与える存在が神様であり、
奪い、ため込む存在がサタンです。
神様の側でありたいなら、
人々に与えることです。

国民から金や自由、命まで取り上げようとする
安倍や麻生は明らかに悪魔の所業です。
そして上級国民だけが多くの物をため込んでいるのが
日本の現状です。

では私たちはどちらを選ぶべきか?
当然、与える側です。
現時点では
まだ私たちは人に与えられるものをあまり多くは持っていません。
しかし神様からもらった個性才能、または悟り、ひらめきを
自分だけの物とするのではなく、
広く伝えていかなくてはなりません。

そうしないと奪い、ため込んでいるサタンと同じ存在になってしまうのです。
私は常に与える側でいたいと願うのです。

神様は生きておられ、
この終わりの時に
より私たちに寄り添ってくださっています。
何もしなければ感じることはできませんが、
明け方の祈りで悔い改めることによって、
その意思を受け取ることができます。

神様の知恵を得て生きていくことの素晴らしさと奥深さは
未熟者の私にはまだまだわかりません。
しかし、その片鱗のようなものに触れさせてもらって、
義人しか生活することが許されない千年王国に想いを馳せるのです。

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